YOLトップ 北海道発トップ 知床特集トップへ戻る
知床特集

知床連載記事

峠を越えて 「知床旅情」50周年〈1〉 「地の涯」に人情の歌

 生まれて半世紀。「知床旅情」は時を超え、今も多くの人に愛唱される。名曲誕生のエピソードを紹介するとともに、この歌に心を寄せる人々へのインタビューを連載する。


 「知床旅情」が誕生して今年で50周年を迎える。昨年11月に亡くなった森繁久弥さんが1960年7月、北海道知床半島を舞台にした映画「地の涯(はて)に生きるもの」の撮影中に、知床の人々とのふれあいから生み出した。この歌との出会いを「原点」と語る歌い手に、加藤登紀子さんがいる。森繁さんへの思いを胸に、時代を超えて歌い続ける。

(聞き手 北海道支社・石原健治)

知床旅情を「大切に歌い続けたい」と話す加藤登紀子さん=三浦邦彦撮影

 ――初めて「知床旅情」を聞いたのは

 68年。学生運動の活動家で、夫となる藤本敏夫との初デートで、別れの時、藤本が歌ったの。夜空の下で堂々と思いを表現する姿に、歌手3年目の私は衝撃を受けた。負けちゃったなあってね。その後、藤本は拘束され、別離のなかで「ひとり寝の子守唄(うた)」ができた。「知床旅情」との出会いが、初めて自分のために作った曲につながった。衣装を着たシャンソン歌手ではなく、身の丈にあった自分の歌を歌う「シンガー・ソングライターの加藤登紀子」が生まれたのね。

 ――森繁さんの思い出は

 69年の秋頃、森繁さん主催のイベントで私が「ひとり寝―」を歌うと、楽屋にいた森繁さんが「誰が歌っているんだ。ツンドラの風の冷たさを知っている声だ」と言って、舞台の袖で両手を広げて迎えてくれた。私は旧満州(現中国東北部)のハルビン生まれで、森繁さんは旧満州からの引き揚げ者。大陸への思いの共有が、縁を結んだと思っているの。

 ――映画で森繁さんが演じた老人も、旧ソ連の侵攻で国後島を追われた

 そう。知床にも引き揚げ者がたくさんいて、その人たちから今でも「登紀子ちゃん。よく生き延びたね」とかわいがられるの。森繁さんが晩年になっても「ハルビンに行って、二人で馬車に乗って走ろうよ」と話していたことが忘れられない。私は80年代に中国でコンサートを開き、残留日本人孤児と中国語で「知床旅情」を歌って、一緒に泣いた。

 ――「知床旅情」を歌うことについての話は

 70年にシングルレコードを出したけど、当初はB面だったこともあり、森繁さんにあいさつしていなかった。新幹線でばったり会い、「実は」と言ってドーナツ盤をお渡ししたの。後で「聞いたよ。君は、歌はうまくはない。(でも)心はあるな」って言ってくださった。

シングル盤「知床旅情」

 ――森繁さんに直されたところがあると聞いたが

 歌の最後は「カモメよ」ではなく「カモメを」だと言われたの。カモメは知床に残される人々のことで、峠を越えて旅立つ「気まぐれカラスさん」に「私を泣かすな 白いカモメを」と叫ぶのだと。

 ――これからは、どんな思いで歌うのか

 2008年のコンサートで新曲「1968」を発表しました。68年は藤本、「知床旅情」と出会った私の原点。世の中が二つに割れているような当時、ふと思ったのは、人と人の間に裂け目ができても、底でつながる歌を歌いたいということだった。歌い継がれ、心に根を生やして育っていく。「知床旅情」はそんな歌だから、大切に歌い続けたい。

 エピソード募集
 北海道夕張市で開かれる「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」(25日〜3月1日、実行委員会など主催、読売新聞北海道支社特別後援)で27日、特別上映会「名優 森繁久弥特集」が開催される。「地の涯に生きるもの」を上映するほか、加藤登紀子さんも登場する。
 読売新聞は知床旅情50周年を記念した事業を展開する予定で、読者から知床旅情にまつわる思い出やエピソードを募集する。氏名、住所、電話番号、年齢を明記の上、〒060・8656(住所不要)読売新聞北海道支社事業課「知床旅情」係、または電子メールd-jigyou@yomiuri.comへ。


「さらばラウスよ」を披露し、羅臼の村人に別れを告げる森繁久弥さん(中央)ら。森繁さんの左後方が草笛光子さん、右後方が司葉子さん(1960年7月17日、志賀謙治さん撮影)

 「国後丸の謙三はおらんけ。けんぞおー」。1960年7月。映画「地の涯(はて)に生きるもの」のロケで、森繁久弥さんが演じる主人公の叫びが羅臼港に響いた。転覆した漁船の生存者や遭難者の遺体を収容して戻った巡視船に飛びつき、必死に息子を探すシーンだ。前年4月には実際に羅臼沖で、突風のため15隻の漁船が次々と波間に沈み、89人が命を失う遭難事故があった。

ロケの写真や資料を見ながら、森繁さんの思い出を語る志賀謙治さん(羅臼町で)

 羅臼村(現羅臼町)の200人近い村人たちがエキストラを務め、中には本当の遭難者の遺族もいた。森繁さんに呼応するように泣き叫んだ。「撮影が終わっても、泣き声がやまない。みんなが家族同然で、監督もカメラマンも、もらい泣きした」。当時、村財政係長で、ロケ隊の受け入れ、エキストラの確保に奔走した志賀謙治さん(85)は述懐する。

 森繁さんは港で「映画や芝居で涙は流すが、今回ばかりは心底泣かされた」と、大声で村人に感謝の気持ちを伝えた。

別れの朝、栄屋旅館の玄関に張り出された森繁さん直筆の「さらばラウスよ」(1960年7月17日、志賀謙治さん撮影)

 撮影をすべて終え、ロケ隊が去る7月17日の朝。志賀さんは見送りのため、森繁さんらが泊まっている栄屋旅館を訪ねた。玄関の窓に1枚の模造紙が張られていた。

 知床の岬に ハマナスの咲く頃 思い出しておくれ おれたちの事を

 「さらばラウスよ」と題した、そんな文が書かれていた。

 目をしょぼつかせて出てきたロケ隊のスタッフに聞くと、前夜、酔って谷内田進村長の家に押しかけた森繁さんは「いい歌ができた」と、この歌詞を歌い、障子紙に筆書きして贈ったという。旅館に戻って模造紙にもペン書きし、寝ていたスタッフも起こして歌わせた。

 午前8時過ぎ、別れを惜しんで集まった400人ほどの村人の前に、ギターを抱えた蝶(ちょう)ネクタイ姿の森繁さんと、共演の草笛光子、司葉子さんらが並んだ。

羅臼港のロケで彦市を演じる森繁さんと羅臼の人々(志賀さん撮影)

 「今、日本の国では、人情が紙より薄いと言われていますが、羅臼のみなさんの人情の機微に触れさせてもらって誠にありがとうございました。後々(のちのち)のために歌を作りました。みんなで歌って別れましょう」

 そう話した森繁さんが模造紙の歌詞を示し、ギターを弾いて歌った。志賀さんは、持っていたカメラのシャッターを押した。「君は出て行く 峠を越えて」。森繁さんは、小節ごとに繰り返して教え、やがて歌声は村人、ロケ隊全員の大合唱となった。

 その秋、村役場に森繁さんから「知床旅情」と改題された歌の色紙とテープが送られてきた。

 「後々のために」――。志賀さんは今、別れの朝の写真を手に、森繁さんが遺(のこ)した言葉の重みをかみしめる。知床は2005年、世界自然遺産になった。登録された日は、初めてあの歌を聞いたのと同じ、7月17日だった。半世紀にわたり、時空の峠も越えて人々に歌い継がれた「知床旅情」は、「とてつもなく大きな歌」になった。

 【地の涯に生きるもの】 1960年、久松静児監督。羅臼町、斜里町、網走市で撮影が行われた。主人公の村田彦市は知床で生まれ、国後島に渡り漁業で成功するが敗戦で全財産を失う。長男は流氷から転落、次男は戦争で、妻は厳冬期に病で死亡。三男も漁船の遭難で亡くなる。三男の恋人と悲しい対面をし、失意の彦市は猫と知床の番屋で留守番さんを務める。戸川幸夫の原作小説「オホーツク老人」に感動した森繁久弥さんが森繁プロダクションを設立し制作した。

 リスト一覧へ戻る